モーション・グリーン

読破本・特撮(仮面ライダー)・アニメを取り上げるブログです。

見るともなく全体を見るーとらわれない視点についてー

 SLUM DUNKやバガボンドの作者で知られる井上雄彦氏のHP Inoue Takehiko on the webに興味深い文章が掲載されていたのでご紹介します。といっても更新されると、記事自体がなくなる可能性があるので、以下抜粋します(記事自体は井上雄彦氏の近況のコーナーです)。      八月某日: スポーツにおいて,日本の代表が何だかナイーブな負け方を喫するのをここ最近よく目にするようになった。技術や戦術さえ成熟していれば防げた敗戦もあったのかもしれないが、その部分の考察は専門家に任せるとして、勝負がかかったときの心の問題について考えてみる。 我々日本人を代表している選手たちのもつ弱さは何も彼らだけのものではなく、当然我々が平均的に内包しているものとして考えるべきだろう。 自戒の意味も込めて何が足りないのかを考察してみたーーーー 危機察知能力、ここが危険の際(きわ)のところと感じて即座にその芽を潰してしまう能力。同時に、相手にとっての危機の芽、つまりこちらにとってのここが倒しどころという瞬間を見極め、一気に遂行する能力。 自分のリスクはあっても、向こうだって同じように苦しいのだということに思いが至るか。そこで図々しいまでに勝者然とした顔が出来るか。 勝負を決められるときにリスクを恐れず、決めきってしまうこと。 決められるときには勇猛果敢に、そして冷徹になんとしてでも決めてしまう、それは裏返せば、相手に反撃のチャンスを与えることの怖さを知っているということ。決して蛮勇の類ではなく、故に臆病と強さは相反しない。 勝負事には必ず流れというものがあり、ひとつの流れがずっと続くことは無く、ゆえに好機を見逃すことがやがて悪い流れを呼び、敗北を招くと知っていること。 同じように危機は永遠には続かないと知っているが故に耐えること、やり過ごす術を知っていること。 。。。。。 こういったものをいつしか我々は見失った、あるいは忘れてしまったのではないだろうか。 人生にはより多様な価値観を認めるべきだし、「勝敗」でくくれるものはそのごくごく一部である。短所は別の視点で見れば長所でもある。 だがこと勝負の世界においては、負けがゴールであるという人は見たことがない。 *  読み終わったとき、ふと思い出した。    「一枚の葉にとらわれていては木は見えん。一本の樹にとらわれていて森は見えん。」  「どこにも心を留めず、見るともなく全体を見る。それがどうやら・・・・見る、ということだ」  バガボンド―原作吉川英治「宮本武蔵」より (4)にて、僧・沢庵が語る「見る」ことの本質。    心をどこに留めるか、正直難しい話で。離れてしまえば、残された身体など抜け殻のようなモノだし(心、ここにあらずの状態)。だからといってのめりこめば全体を見ることはできない。  よく見た目はマジメにがんばっているように見えるが、結果が伴わない人がいる。それは点であって線ではなく、ゴール地点によっては無駄な作業であることはしばしば。  つまるところ、ゴール地点を決めることで、心(視点)は一点以外のものを見ようとするのかもしれない。  でも難しく考えても仕方がないことなのかもしれにあ。それすら、とらわれているかもしれないのだ。    とらわれるな  武蔵の声が聞こえてくるようだ。  井上氏のいう「心の留め置き場」を考えると、勝負の時に限らず、問題が起きた際や、悩みがあるとき、様々な場面において、点ではなく線(もしくは他の点)で考えなければいけないと言うこと。そして相手も人間であるということ、それを知識として知っているのではなく、目線(心)の置き所として身体に覚えさせ、たたき込み、自分から他者(?)へ視点が乗り移るような意識を持たせるということなんだろうと思います。そうしなければ、自分の理解だけではなく、相手の理解すら果たせない。「相手ならどう考えるか」という視点がいい例で、わかってはいるのだけれど「相手もコチラと同じように辛いのだ」と認識できない(心が留め置かれていない)。だから自分1人で苦しんでしまうと言うことなのでしょうか。とらわれちゃいけない、勝負は日々起きているのだから。  バクチに限らず、勝負師と呼ばれる人は、心の留め置き場を固定していない人なのだろう。冷静さと大胆さ、そして楽天的、そんな人はあとどれだけ現代人にいるのだろうか。あるいは、そういう人たちが生まれない世界であるということなのだろうか。そう考えると、僕たちの世界は案外狭っ苦しいのかもしれない。