モーション・グリーン

ブログ開設14年目!今年も「紡ぐ」発信を目指す読書・アニメ・特撮感想ブログ。

史記・武帝紀〈1〉 感想

 ちょっと発売から間が空いていますが感想をば。  

史記 武帝紀〈1〉
角川春樹事務所
発売日:2008-09
おすすめ度:4.5
 

 ○権力の輪廻  

「陛下は、あまりに人でありすぎるのです(中略)だから陛下は、人に滅ぼされます」  

 

権力とは何か、国とは何か。  

歴史小説においてその生き様と志を描き続ける北方謙三が連載を開始した、水滸伝(楊令伝)や三国志と並び立つスケールの歴史小説

 

数多の漢たちの戦いとその果てを(北方氏には珍しく)権力を得た者の立場から描き出しているのが、大きな特徴だろう。  

 

物語の主人公の一人・武帝(劉徹)は権力闘争の中で息を潜めながらも、次第に自分のやり方を前面に出し始める。

自分の目指す国・目指すやり方・目指す形に向けて、武帝は自分の思いに答える人材を次々に登用し、守るだけであった異民族との戦いに、積極的な攻勢の姿勢を貫いていく。

そこには、己の信じる道をただひたすらに突き進もうとする、若き英雄の姿があるように見える。  

 

その希望と理想に燃える武帝に引っ張られながらも、私は1つのスパイスに目を奪われる。

それは権力というものが、システム→人へと移り変わることを示し、その危うさを暗示するかのようだったからだ。  

 

事件は、確かに重大事ではあった。

楚服という巫女が呪詛を行ったというのだ。

実は楚服を利用し、宮廷の勢力を塗り替える武帝の謀略であり、狙い通り宮廷の変革には成功する。

 

だが楚服の処刑直前、武帝は楚服との対面を果たし、そこで意外な言葉を投げ掛けられる。

それが冒頭の言葉 「陛下は、あまりに人でありすぎました(中略)だから陛下は、人に滅ぼされます」  

 

これは、後の武帝の末路を予見しているかのような言葉である。  

 

実際のところ、武帝はそれまでのシステム的な権力のあり方を、人の力(リーダーシップ)中心の仕組みへと移行しつつある。

つまり、トップの方針の下に、トップが示したとおりの実行力を持つものを揃えた、いわばトップダウン方式だ。  

 

対して、これまでの体制は、トップよりも運営するスタッフに権限が与えられており、いわばトップの才覚がある程度伴わなくても国が運営できるような形。

現在でいうと、多数決や合議制などの力の分散に代表される‘組織制’といったところだろうか。  

 

まとめると、どちらも運営者の器量が問われるが、後者は権力の分散や運営のシステム化によりある程度の能力差はフォローできるが、前者は完全にトップの器量次第、ということになる。

まさに武帝は能力・人格共に全てを背負う形を作っていることになる。  

「帝は、人ではない。だから国に必要なのです」

楚服の言葉は、単に象徴として否人化されるべき帝が人らしい力(魅力)で国を動かすことの危うさを述べているのだ。  

 

現在連載中の楊令伝26回にて、楊令が梁山泊の運営をトップダウン方式→合議制(組織性)にしようとしており、この史記武帝紀における武帝政権と真逆の流れになっているところが興味深い。  

 

つまり、権力の歴史はその時代においてトップダウンと組織性を輪廻するように動き続けている、ということではないのだろうか。

だとすれば、組織性→トップダウンの形を作りつつある武帝は、全てを一手に担うことになる反面、全てを背負わなければならない。

そしてそれを阻むものがいない国ができあがるのだ(原本でいけば、武帝はその後権力の闇に取り憑かれるように判断力を低下させていくのだが・・・)  

 

とはいえ、衛青を初めとしたメンバーが武帝に惹かれるのは、その人間としての魅力であることは間違いない。

しばらくは、この青春活劇のような爽やかな展開が期待できそうだ。  

 

○その他  

・物語は武帝や衛青たちに留まらない。西域に使者として送り込まれた張騫がタクラマカン砂漠を横断する、壮大な冒険も見所の1つであり、異なる国々にて彼らが何を見るのか。そこにも国と権力に対する答えが潜んでいるかもしれない。  

・本作を書くきっかけになったといわれている李陵・山月記 (新潮文庫)。その主人公である李陵の登場も予定されているという。彼の友である蘇武や、後に史記を書く司馬遷も後に控えているらしい。まだ一巻、先は長い。  

史記 武帝紀〈1〉
角川春樹事務所
発売日:2008-09
おすすめ度:4.5
 

ブログランキング・にほんブログ村へ images