民を導くことは出来ん
一歩ずつ成長を見守るしかねェ
天下分け目の山崎の合戦、完結編。
織田信長亡き後の世界を民の意志に委ねる。
ここだけきくと非常に違和感の残る方向性だけど、『天下布武』は武士だけではなく民衆をも巻き込んだ社会改革だった。
それを思うと、次の時代の理想図に民が(大なり小なり)意志を示すべきだ、という発想は自然なのだろう。
支配者が変わる度に、お金を払って安全を保証してもらう。
そんな民の姿をみて、自立を期待する光秀。
自分たちの理想なんぞ語れるほど明確なビジョンは持っていない、未成熟だからこその爆発的なエネルギーがある。
その流れに身を預けた秀吉。
光秀の必殺陣・殺し間で撃ち殺されながらなお、ただ熱狂の中突き進む秀吉軍。
痛みを伴ったことで芽生えると思っていた“自我”は顕在しなかった。
時代は未成熟を選んだ。
信長が描いた世界の欠点を知るが故の蜂起だった光秀を否定した世界。
高揚感と切なさが読みながら押し寄せてきたなあ。
(この戦いの結果の意味を、秀吉が誰よりも理解していた、というのがこの先の豊臣政権の反映と没落を暗示しているように見える)
時代はまだ、熱狂の中にいる。
大きな形でそれを証明した秀吉と、ミニマムではあるが自分なりの形で結果を出したセンゴク。
今はまだお互いの結果をたたえ合う状況。
でも、その先にある社会形成が異なる方向に行きそうな感じが漂う。
とりあえず、久々にセンゴクが出てきたことを、喜ぶか(笑)
そして次巻は清須会議。
天下の形勢、そして民の温度感を掴んだ秀吉と、柴田勝家じゃ説得力が違うよなあ。
やはり、光秀の不気味な存在感は、いるだけで恐怖だった・・・