昔、熱で寝込んでいた頃。 水分補給でポカリを飲んで横たわる。
すると、のどから水分通過の報告が入る。
体内にいる小人さんがえっちらほっちら水分を運び、チェックしてどんどん流し込む。 のどを通過して体に入り、腕や下半身、臓器など、様々なところから水分の感触が伝わってくる。
聞こえるはずのない小人さんの声や息づかいが聞こえた。
水分がどこを通過しているのか、指をさせと言われたら指し示す自信があった。
体調が悪く、眠ることも出来ず、ただ寝転んでいる自分は、体の変化を見ているしかなかったのだろう。
僕はあのとき、体を“観察”していたのかもしれない。
この本を読んで、思い出せないあの感触を、懐かしく思い出した。
変わった対談だった。
ザックリ紹介すると、思念や解釈を入れず、ただ“観察”することを説いたお話し。
「ただ見る」
簡単そうで、実はこれができない(やりづらい)
情報社会、僕たちは無意識のうちに、見たものやことを解釈まで一気に思考を飛ばしすぎている。
親に怒られた。そこから憎しみや憎悪を膨らませたり
泣いている子供を見た。そこからその子の親に保護者失格のレッテルを貼ったり。
目の前にあるのは、ただ一つの事象、ファクトでしかないというのに。
他にも、僕たちは『思い込み』という形や『解釈』『決めつけ』という形などで、判断してしまっていることが多い。
すると、そこで思考は止まってしまう。
そんなことはない、という人も、写真の撮影、動画の編集も、その切り取りに意志が働くことで、本来あった(存在していた)ものとが違うものを、他者に見せているのだ。
(取材やインタビューが本人の意志とは違う所で切り取られている話が、その好例)
結果、目の前にあるもの、そのものを知ることもなく、気付くこともない。
本来、そこには、見たままのものしかないというのに。
逆算思考や仮説思考が進みすぎると、目的を明確にして(結論ありきで)僕たちは構えすぎてしまう。
するとその場の変化に対応できず、実態を歪めてしまう。
その弊害は目に見えないところで拡がっていることを、本書では痛いほど突いてくる。
ただそこにいる。
ただ見る。
記録する。
そうすれば、自然に脳が動いていく。
それをながめる。
急ぎすぎず、結論を求めすぎず。
それくらいの感覚が、これからにはちょうどいいのかもしれない。
流行のマインドフルネスの意義もここにつながってくる。
挫折した人や興味薄かった方もこのアプローチから入ると試したくなるかもしれない。
対談は様々なところに飛び、難しすぎる仏教思想や「言語化できない悟り」の話しなど、わかりづらい言い回しも出てくる。
だが、そこを差し引いても気づき満載の満足な1冊。
もし、今の世の中、自分の周りに違和感や息苦しさを感じているなら、この本が助けになるかもしれない。