五木寛之という作家は、出会うときによって、その存在が大きく違って見える。
かつて『生きるヒント』読んだときは、力を抜いて読める不思議な雰囲気に魅せられ「こんないい大人になりたい」と思ったもの。
それ以降、折に触れて五木さんの著書やインタビューを読んでいるのだけど、あるとき、ご本人の心情がマイナス(後ろ向き)に針が動いている感じがした。
読んでも力が湧かない。
そんなあっさり割り切らないでよ、と思ったことも何度かある。
今思えば、当の本人(つまり当時のぼく)が精神的に不安定だった時期だったのかもしれない。
どこか前向きで背中を押してくれるようなメッセージを期待していたのだろう。
とはいえ、相手や時期によって捉え方が変わりすぎるのも考えものなんだけど(笑)
『親鸞』執筆時期だったこともあるのかもしれないが、やはり五木さんは発するエネルギーが乱高下する印象は今でも強い。
ただ、本作を読んでみると、ずいぶん柔らかくなった感じがする。
そして、できることとできないこと、わかっていることと曖昧なことをはっきりさせようとする姿勢と実際に分析しようとする(そしてご自身で調べて見解を出す)姿勢は、等身大でわかりやすく、すんなりそのお姿が目に浮かんで、とても安心した。
思い込み、感情任せ、そして決めつけ。
いろんな思いが巷に溢れている中、五木さんのこの姿勢こそ、コロナ下で必要なことではなかろうか。
そして、自分が知っていたことが曖昧なことばっかりと気づいたときに、僕たちは何を目印に生きるのだろうか。
健康にいい食べ物から、生きるという意味まで、僕たちが思い込んでいたものをきちんとファクト認識したら、その先には、手元にあるもので決めなきゃいけない現実が待っている、と五木さんは語る。
生まれる場所も相手も決められない。
生まれるということは不自由なこと。
泣いて生まれてくるのは、人間社会という辛い場所で生きなければいけないため。
親鸞を書き抜いた五木さんだからたどり着けた、理不尽の先にある究極の「選ぶ」力。
書かれている命題に結論はない。
でも、ファクトを知ることができた事自体でなんだか豊かになった気分。
それじゃダメなんだろうけど、そんなエッセイもたまにはいいものだ。